2006年01月25日

自覚。

私、たまな。

世の中、自分にとっては合理的ではないことが多々ある。

でも、One of themである場合、自分の合理性を主張するより、言ってしまえば長いものには巻かれておいた方が無難。

個性の主張は、この『One of them』を自覚できていないと、ただのわがままだったり、空気が読めないだけだったり。

自分は特別と思っていても、大勢の中の一人でしかない場面は、本当に多くて、それを意識せずともわかって適切に振る舞える人の方が、本領は発揮しやすいように思うのです。
ニックネーム なつこ at 11:56| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年09月05日

こだわり。

私、たまな。

最近、じょんに色々「助言」される。主に『姿勢』と『メイク』と『「じゃん」言葉』。

命令とか、押し付けではなく、あくまで助言なところが、ぐぅ。ダッシュ(走り出すさま)

でもね、そういうのって、なかなか、なおせないものだよね。

「姿勢&じゃん」については、割愛。


さて、

じょんに「たまちゃん、眉毛をもうちょとはっきり描いても似合うんじゃない?」と言われた。

えーーーーーっ。

眉毛って、流行り廃りがあるし、こだわりの一品じゃない?すんなりと「そう?」とは言えませ〜ん。ごたくを並べて、やだなーというのを、アピール。


でも。


話が少々飛びますが、私が敬愛してやまない「おかあさん」と呼ぶ女性がいる。

おかあさんは、すごいの。

いろいろ「すごい」んだけど、そのなかの一つ、とにかく、こだわりがない。

お陰で、非情にハッキリした人で好き嫌いも激しいんだけど、ご主人の思いつきの暴言に、ゼッタイに逆らわない、・・・ように見える。

例えば、おかあさんが毎日やってるルーティンな仕事がある。フツー、自分のやり方が確立されてて、人に言われても、「このやり方がいいのよ」と変更しないような内容のことに、ご主人が思いつきで口を出す。

すると、おかあさんは「むかっ(怒り)これがいいのよ」と言いながら、翌日は、ご主人の言ったとおりにしてる。

別に、ご主人は暴君ではない。ただ、言い出したら引かないところは少しあって、時々、面倒だけど。

おかあさん、こだわりはないのですか?

「別に〜。お父さんの言ってる事なんて、全然、聞いてない。ただ、言われたからやってみただけ。」

一度、やだなって反発を抱いたものを、素直に受け入れ直すって、難しいと思うんだけど・・・・。

少なくとも、私は、苦しい。

でもね、私、自分のそういう「こだわりへの執着」に、ちょっと嫌気がさしてます。おかあさんのように、すんなり、こだわりをポイッてできたらいいのになーーーと、思います。



さて、話を戻すと、眉毛には、こだわりがある。

でも、

昨日、ためしに、じょんの言うようにしてみることにした。思いのほか、全然苦しくなかった。

じょんは、さっそく気が付いて、ご満悦。

じょんに気に入られるのは、もちろん嬉しい。でも、そのために、こだわりを手放したわけじゃない。

『とりあえず、やってみようかな』という、妥協

やってみれば、できるもんだ。なんだか、すがすがしささえ、感じてしまった。



私は、どーでもいいことは、ほんと、どーでもよく、すごく素直に「ハイ」と言える。

でも、こだわってしまうと、とことん譲れない。

「いや」(拒否)から「ハイ」(受諾)に移行するには、相当な葛藤と、心の切り替えが必要になる。

「ハイ」と言うからには、絶対に心からYESでなければ!!という覚悟をしないといけないという自己ルールが確立してた。実際、覚悟しないと、ハイと言えなかった。

そんなさ、白黒はっきりさせなきゃいけないよーなことじゃない。

にもかかわらず、そういう意固地さがある。


ちなみに「こだわり」というのは、いい意味じゃない。言語学者の金田一先生いわく、「つまらないこと、ささいなことに拘泥していては身動きができなくなるから、その執着は捨てなければいけない」というマイナスな意味で使われていた言葉。

譲れないものは、譲りません。でも、こだわりは、気楽に捨てたいの。そしてまた、気楽に拾いたいの。そう思ってる。


さて、眉毛ちゃん。今後もじょんのお気に入りバージョンが続くか、という点ですが、おそらく、いや、まちがいなく、元に戻る。ははは。

「とりあえず、やってみた」というのが、私にとっては重要なのです。気楽に捨てて、気楽に拾う。だからね。


眉毛を変えてみようと思ったとき、勇気を出したわけでもなく、おかあさんを見習おうと思ったわけでもなく、自然とそうなった。

それは、多分、いつもいつも心のどこかで「おかあさんを見習いたい」という意識があって、自分に刷り込んでいたせいなんじゃないかなぁと感じてる。

無理に自分を変えようとするのは歪んだ行為だけど、リスペクトするものに影響されていくというのは自然な流れな気がする。

良いと思うものを良いと意識することが、最初の一歩なのかもしれないと思うのでした。
ニックネーム なつこ at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年08月12日

教養再考。

私、たまな。

以前「私は教養がない」と言う話をした。

教養って、一体なんだろう。

受験勉強は教養じゃない。受験勉強のお陰で養ったのは、「知識」でした。「知識」は、知っているか、知らないかの問題で、

「教養」は、『知って、それについて考えて、自分なりの成熟した認識を持つ』ということなんじゃないかなぁと、思うのです。
ニックネーム なつこ at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年07月31日

教養。

私、たまな。

私は教養がない。

そう思っていたら、今日、じょんが「教養って言うのは、歴史、文学、哲学のことなんだけどさ、昔の旧制中学時代は、こういうのに時間を割いたんだよねぇ。」と教えてくれた。

ああ、ますます持って、確信。

私は、教養がない。

だけどね、不思議なことに、TVの教養をネタにしたクイズなんかの番組では、正解率が非常に高いのです。


思うのよ、現代の「教養」と言われているものの、が下がっている。と。

私の教養は、イコール『受験の覇者』なだけなの。

私は、大して読書量は多くない。けど、受験に必要な本はたくさん読んだ。国語も得意で、教科書や、受験用の問題はたくさん読んだ。だから、語彙量が勉強していない人よりはある。

それに、医師の国家試験の勉強量は、半端じゃない。

大学受験の当時、「つらいなー」と思ったけど、国家試験のとき、「大学受験って、めちゃめちゃ、ちょろかったんだ・・・」と思った。

読まなければいけない文字数が膨大。その文字がなす文章は「良質の文章」とは言いがたいものの、とにかく単語量だけは多いわけで。

私がこれまで目にした単語量を、もっと良質な文学哲学の本で吸収していたら、そりゃー、私も、目が回るくらい教養深い女性になっていたことでしょう。

このままエセ教養で生きていくか、これから良質な教養を身につけていくか、それが問題だ。

ちなみに、私、受験勉強肯定派。

大学は、何しにいくの?」って聞かれると、まさに、「教養を身につけるところ」って答えてきた私。

だけど、自分は、大学で「教養を身につけようという姿勢」は欠落していたと反省しておる所存でございます。

合理主義なため、幼いころ、大学には職業訓練的な要素を求めていた私。(だから、「手に職」と直結している医学部に行った)

だけど、「違ったんだなぁ」と、今、思うよ。

就職のためにではなく、心の豊かさを養うために、大学には行くんだわ。

私が教養がないのは、受験勉強のせいで時間がなくて本が読めなかったわけじゃない。教養というものを意識していなかったからだ。

やっぱり、「させられ」ないと勉強しようって若いころは思えなかった。させられたお陰で「現代の教養」は身についている。受験勉強がなければ、私はもっとさらに教養がなかったに違いない。

『教養深い』ああ、なんて、魅惑的な響き。←ばか。
ニックネーム なつこ at 18:13| Comment(3) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年07月07日

みんな、多忙。

私、たまな。

私は、全然、多忙じゃないです。でも、暇を持て余してもいません。

今日、話をした女性マドカさん(40代)が、「私、手帳に予定が埋まっていない日があると、落ち着かないの。」「忙しくしていないとだめなのよねぇ。」と。

話のきっかけは私と共通の知人ミチさん(50代)。

ミチさんは、自分の時間をたっぷりと堪能していて、本人いわく「毎日、忙しい。」

それは、どこかにでかけたり、約束をしたり、そういうのではない。

ミチさんは、毎日ご飯を食べたり、運動をしたり、お庭の手入れをしたり、勉強をしたり、で、忙しいのだ。

マドカさんの考える忙しいとは、全然違う。

マドカさんは、ミチさんに対して、「時間があるのだから、もっと私たちに対して時間をさいてくれたらいいのにねぇ」と愛情を込めて軽い気持ちで言う。

私も、かつて、マドカさんと同じタイプで、手帳の予定がびっしりだった。忙しいことが好きだった。家で1日くつろぐなんて、考えられなかった。

だから、マドカさんの「忙しさ」に対する気持ちは、わからなくない。

でも、今は、私はすっかりミチさん派。傍から見たら、時間がたっぷりあるように見える。

そう、ミチさんも私も、時間がたっぷりあって、何にもしないことを存分に味わっている。選んで、ゆったりと過ごしている。

ゆったりと過ごすことに「忙しい」の。

マドカさんには、この感覚はわからないらしい。「ごはんを食べるのに忙しい」と言ったら、冗談を言っているのねという感じで微笑まれてしまった。

たぶん、マドカさんの「忙しい」の感覚の方が、一般的でしょう。

子供の頃は、学校という枠や、親の都合で、忙しかった。そういうものの合間を割いて、自分のやりたいことをやっていたから、忙しかった。

成長するにつれて、選択肢が選べるようになっていって、私は、ますます忙しい道を選んだ。友人の多くも忙しい道を選んだ。

だけど、病気になって、それまでの「忙しさ」から良くも悪くも引き離されて、周囲を眺めてみたら。「ゆったりとした時間の使い方」を選んだ大人がいることに気がついた。

そして、「ゆったりと時間を過ごす」=「忙しくない・暇を持て余している」ではない。ミチさんも私も、時間はあるけど暇じゃない。

時間に追われているのは、子供だけ。大人は、選んで時間に追われているし、選んで時間を有効に使うし、選んでゆったり過ごしている。

マドカさんにしてみれば「『忙しい』って、とっても魅力的。」だし、ミチさんに言わせれば「『(一般的な)忙しさ』に振り回されるなんて、馬鹿げてる。」だけど、そんなミチさんも「忙しくって、嫌になっちゃう。」と、現状を忙しいと評価する。(そして、改善を望んでいたりする。)

「忙しい」という概念は、客観的にとらえることが可能そうに見えるけど、本当に、個々人の主観に委ねられているなぁと思う。

時間をどう使うかは、本人次第。「予定を入れれば有効か?」そこが、個人差だなぁと思うのでした。
ニックネーム なつこ at 18:22| Comment(4) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年06月15日

見返り。

私、たまな。

「全く見返りを求めない。」って、可能なのかな。きっと、デキル人にはできるのでしょうが、多くの普通の人は、見返りを求めるのが自然だと思う。

私は、知ってる人は知っている、超スーパーM女。なんですよ。耐えることが好きというか。ま、それはいい。

だから、かつて、つきあった人には、もしくは付き合う前から、かなり、尽くす女でした。とても都合のいい女でした。Give&Takeではなく、Give Give Give。

友人が「私なんて、Take Take Takeよ〜♪」と言うのも、私にはムリーと思ってました。

でもさ、今、思うのよ。私も、見返りは求めていたのよ。自分で気がついてなかったけど。「私がそうしたいからそうしてるだけ」ってのは、自分を納得させるためだけの聞こえのいい言い訳。

本当は、相手が喜んでくれたら嬉しいなって思ってた。それが見返り。いつか、感謝されたらいいなって思ってた。なにか、やさしい言葉をもらえたら嬉しいなって思ってた。

で、勝手に、自分が期待してるだけだから、反応がなくても良しとしようと、納得するようにしてた。本当は、がっかりしたりしてるのに、そういう感情には気がつかない振りをしてた。

ま、それで、大きなトラブルもなく、平穏無事に過ごしてきたので、昔の思い出なのですが、
今は、違うのです。

はっきりと、見返りを求めている自分を意識しています。これをやって、喜んでくれなかったら、私は不満に思うだろうなと思うことはしないようになった。要するに、過剰なサービスはしない。

気が付く女と思われ、評価されることも、見返りの一つだったので、できる限りの気配りのアンテナをはっていたけど、よく見られたい、好感度を上げたいというためだけの気回しはやめた。

見返りを求める自分を意識したら、欲しいレスポンスを期待し、思い通りにならなかったら、なんでだーと主張するようになったし、意外と、相手の反応はどうでもいいこと(つまり、見返りがなくてもいいこと)がたくさんあるのにも気がついた。

「何を、当たり前のことを」とお思いの方が、たくさんいると思う。だけど、私のように、ただひたすらに、いい子でいたいがために、いろんなモノを歪めて、「いい子な自分」像を保っている人も、いると思うのです。

そういう人に、気がついて欲しい。あなたも、求めているということ。そして、求めることは自然なことで、悪いことじゃないってこと。求めていないフリは危険だってこと。

いい子でいたい人は、悪いことをしたくないのです。でも、いつもいつも、正しいことだけして生きていけないし、そもそも、その「正しい」を決めてるのは、自分で、かなり、主観なんだよね。

私は、相変わらず、いい子でいたいと思っているし、それが自分らしさのひとつだと思っているので、ムリにアンチいい子は目指していません。

でもね、若い頃のように、いい子を演じることもやめたのです。気がついていなかったけど、かつての私は、根っからいい子で、さらに、いい子を演じてたのです。

お仲間はそこかしこにいると感じる今日この頃。みんな、根はいい子。そして、そのベースにプラスして、ムリして演じている人もいれば、演じることを楽しんでいる人もいる。

「子」という年齢ではないのですが、30になっても、40になっても、『「いい子」の概念』から逃れられない人はいるから、そのへんの語感の違和感はお許しください。
ニックネーム なつこ at 23:06| Comment(3) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年05月11日

恋愛観。

私、たまな。

緋月ちゃんが「恋したいですか?」と、語っていたので、おしゃべりしたくなった。

私が28歳くらいの頃、30歳になったばかりの独身彼氏なしの(私は)魅力的と一度も思ったことがない仕事仲間(医療関係ではない)が、「片想いでも恋してなきゃって思う。」と言った。はぁ?おなた、いくつよ??と心底驚いた。そういう片想いは、恋未満だと思う・・・。

恋愛は、人それぞれですが、その世代ごとの恋愛ってあると思うのですよ。中学生には中学生の、高校生には高校生の、大人には大人の。その年代ならではの恋愛の形ってある。ベースがあるから、イレギュラーが魅力的なわけで、イレギュラーをベースにしちゃうのは、もったいないよ。

そりゃーね、30過ぎても、諸事情あって、片想いしてますたらーっ(汗)ってのはありますよ。でもね、もう、片想いが楽しいって違うだろっ。子供の時は、片想いも楽しい。片想いでも充分『恋』と呼べるものがある。でも、大人になったら、片想いは全然楽しくない(特殊な諸事情のぞく)。両思いの方がぜったい、楽しい。

両思いになるべく努力をしてての発展的片想いならまだしも、恋に恋した片想いは、30歳のステキな女性の言葉じゃない。恋以外にもすることたくさんある。恋は人生においてオプションですよ。

先日、読んだ雑誌で「生涯恋愛至上主義!」って・・・・。そのターゲット層が40代。情けなくなった。40代は恋愛なんてしててもしてなくても、ステキな人はステキなの。

恋しか女は輝けないって、あほかー。女の美しさはそんな狭っこい限られたもんじゃないのよ。母親の美しさ、分別ある女性の美しさ、プロフェッショナルな女性の美しさ。恋は、おまけです。

確かにね、60代の女性が運命の人に出会って、恋に落ちたっていうのは、あら、ステキって思うのよ。(ごめんなさいね、思うのよ。)そういう出会いはいくつになっても、あって不思議じゃない。けど、恋をしたい恋をしたい恋をしたいって、恋愛の胸のときめき以上のものをみいだせない方が寂しいって気がつかないのかなぁ。

もちろん、恋愛の胸のときめきは、甘美です。失いたくないって思います。どっぷりつかって、相手のことしか考えられなくなったりして、一生懸命がんばっちゃたりしちゃいます。だからね、恋しているときは、いくつになっても、存分に楽しめばいいと思います。

恋しか考えられない年頃と、恋以外にも大切なものをきちんと享受できる年齢と、やはりあると思うのです。恋しか考えられない年頃というのも、それなりに大切で、あって然るべきだと思う。ただ、せいぜい20代までだと(個人的には、25歳くらいでどうか勘弁と思ってるけど、今の社会性を考えると、20代まで可と言う方がいいかなぁと、迎合してみた。)思うのです。

ちなみに、私は、おもいっきり、メルヘンちゃんですよ。(笑)だから、大好きなヒトと結婚して、何度もその人に恋したいって思ってるもん。はははは、子供っぽくて、おばかでしょう。(まだ、独身なので、夢想くらいさせてくれ!現実はいつか知る。)

今は、たまたま恋愛している。恋もする、他も楽しむ。そういういい歳になったのねぇと、思っています。
ニックネーム なつこ at 22:12| Comment(1) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年05月01日

瑞々しい。

私、たまな。

以前にも、『若くていいことはお肌がスベスベで髪がサラサラで知らない強さを持ってることぐらい』と言ったけど、もちろん、若さを軽視しているわけではない。ただ、私は、「お若いですねぇ」と言われても、全然嬉しくないし、心に何も残らない。

もっとはっきり言うと、「若いっていいわねぇ」とか、「若々しくいたいよねぇ」とか言う人も、好ましくないし、自分自身、若さに関心がない。

(前にも言ったけど、私も、目上の方から見たら、まだ充分若く、青いのです。「若い」は比較であって、適切に何かを指しているものではない。)

いらない波風は立てるつもりはなので、「若い」と言う言葉が好きそうな人には、適宜使いますが。

「若さ」にしがみついているのは、見苦しい。

「若々しく」と言えば言うほど若くないことを強調してて、意に反しているように見えるんだけどな。

年相応の分別を持とうとすると、「若さ」への執着はおのずと遠退く。

必要なのは、「若々しさ」ではなく、「瑞々しさ」だと思うのです。

私は「年相応の分別」と「瑞々しさ」を持った人に惹かれる。これは、10代から始まって全ての世代でね。

「瑞々しい」という意味で「若々しい」という言葉を使っている時が実は多いのも事実で、ま、それはそれでありだと思うけど、わかっている人は、ムダに「若々しい」と言わない。

世の30代を過ぎた大人の皆さん、恥ずかしいから、ちゃんと年相応でいましょうよ。そして、めざすなら、「瑞々しさ」にしませんか。

「若々しい」と「若作り」を履き違えたりしたら、それはもう、ひたすらに恥ずかしい。のに、実際、勘違いしている30代過ぎが多いと、身震いする今日この頃です。同世代として反省。

年代ごとの美しさがある。男も女も。「若いことが美しい」という間違った認識は改めた方が、本質的だと思うのです。
ニックネーム なつこ at 23:24| Comment(2) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年04月10日

年齢、とりたくない?

私、たまな。

PRのとおり、私、30代前半なのですが、学生さんからみたら「おばちゃん」だろうし、50代のお茶の先生には、いつも「若くていいわぁ」って言われてる。

常に、目上の者から見れば、年下さんは若い。

30代の私から見て、「若くていいこと」って、お肌のハリと髪のツヤくらい。そう、後は「知らない」という強さ。

かれこれ5年前、『SPEED』が解散した。彼女達って、若さがはじけてた。人気も絶頂で、解散をもったいないと言う人も多かった。けど、私は「賢い!今が潮時。もう限界だもんね。」と思ったの。

彼女達の歌、大好きでした。まっすぐで。あの歌詞は、<大人>には歌えない。SPEEDなら『全て』だけど、大人には、『一部』でしかないから。

彼女達が歌う時、そこには一個もウソが無い。体、心、全部でそう思っている『本当の気持ち』で歌える。だから、心を打った。いろんなことを知らない強さ。大好きでした。

彼女達も成長してきて、段々、複雑な気持ちを覚えて「この歌は、こんな風に言ってるけど、違う見方もあるんだよね。」と思うようになってしまったら、もう、SPEEDの魅力は半減。なので、いい時期に解散したと思ったのね。

そういうわけで、若くていいところは知らないからこそ、人の胸を打つことがある。まっすぐな気持ちは、感動する。

そして、年をとっていくということは、知っていくこと。同じものを味わっても、若いころより、ずっと複雑で甘美な味わいを感じられるようになる。

どちらも魅力的なことであり、皆、平等に若さを経験し、生きている限りは平等に年を重ねる。

若い人は、知らないことを恥じる必要はなくて、これから知っていけばいい。

年を重ねて知っていく悦びと、知っていくにがにがしさと、どれも味わいなのだと思うのです。
ニックネーム なつこ at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年04月02日

anti経験至上主義。

私、たまな。

「経験してない人にはわからないよね」と言うような発言をきくと、そうかな。と思う。

確かに、例えば私の動悸、経験するまで「こんなに気持ち悪い」と知らなかった。経験して、はじめて、とっても不愉快だとわかった。けど、私がこれから動悸の患者様を治療するに当たるところを想像して、これまでの対応と、なにか変わるところがあるか考えると、何も変わらない。これまでと同じ治療をし、同じように「おつらいですよね」という言葉をかけるでしょう。

要は、想像力と共感力の問題だと思うのです。体験しなくても、人に対応するに当たって、「必要なレベル」であれば十分。その「必要なレベル」は相手との関係でかわってくるわけです。

人と人の関わりの間には、それぞれの立場上の役割があって、わかってあげなければいけない立場と、そこそこわかっていればいい立場とがある。全ての人に共鳴し、共感し、同感し、理解してあげる必要はないし、してもらう必要もない。時には、見えていても、これは私の役割ではないなと判断したら、引いている(黙っている)のが適切なわけで。

同じ経験をしていても、立場が違ったり、感じ方が違ったり、本当はわかってもらえていないのに、「同じ経験をした」という言葉に騙されて、「この人はわかってくれてる」と思い込んでいるだけのことも、実はあると、見ていて思う。(その錯覚が心地よく、その心地よさだけで充分なこともあるんだけどね。)

「経験してなきゃわからない」と言ってしまうと、もう、誰も歩み寄れなくなっちゃう。自分から、状況を悪くしてしまってるのよ。そうよ、経験してないから、知らない。でも、わかることはあるのにね。。

それに、なんでも、経験してみりゃいいってもんじゃない。自分がこうだったから、こう感じたから、「こういう経験をしたらこうなる」と、すごく狭めてしまうこともある。もちろん、経験しなければわからなかったことは多く、それもまた事実です。

つまり、経験の「良い仕方」が大切なのだと思うのです。経験は、『知る』だけ。『わかる』とは違う。

そして、本当に、わかってほしいと思ったら、自分も想像力・共鳴力を強化しないとね。と思うのでした。
ニックネーム なつこ at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年03月29日

人らしさ。

私、たまな。

今日は、先日じょんにもらったDVDを鑑賞した。内容は、チベットのラサという都市をベースに、チベット仏教と人々の暮らしぶりを中心としたもの。興味深いものでした。

僧侶数名に「何故、僧侶なったのか。」と問う所がある。

若い僧侶の一人は「この地は9割が仏教を信仰してる。特別なきっかけはない。」もう一人は「輪廻で来世、地獄に行きたくないから。人の役に立つ良い人間になるため。」高齢の僧侶は「16歳の時、(僧侶になると)ちょっと快適な暮らしが望めたから。そして輪廻の苦しみから解放されるように。純粋な心で経典を学びたかった。」

じょんが、取材した時、現地の人に「巡礼の時、何を願うのか」と尋ねると、全員「世界の平和」という内容のことを答えるんだって。色々、事情があっての(政治的なとか色々)模範解答なのだろうと、しつこくつっこんでも、そういった返答しか得られなかったらしい。真意は結局わからないまま、でも、彼らはお祈りするとき「世界の平和」を祈ることは確かのようです。

ふたつを対比して、私は、僧侶達の方が生臭くって、人間らしいなぁと感じ、より悟ってるなぁと思った。そして、人って、真面目で、不器用で、利己的なんだなぁと確認した気がした。

うっかりすると、人に身を捧ぐことばかりを正しい行いと追求しそうになる。けど、僧侶だって、「自分の利己(地獄に行きたくない、輪廻を断ちたいとか)」をモチベーションにしてる。それをはっきり口にしているということは、利己もありと悟っているからと私は読んだんだけど。

もちろん、きっと、「人の為にという気持ち」も大切なモチベーションになっている。両方があって、当然なんだなぁと改めて思いました。

良いイメージのことを正しいと決め付けて、それに反することを「いけないこと」と評価してしまうことが多い。けど、人間って、いつもいつも正しいことだけしてはいられないんだよね。

正しいと思うことに反しても、いけないことではなかったりする。

そういう「人の微妙な揺らぎ」に色気を感じるし、いとおしさを抱くのでした。

純粋さと泥臭さと両方混在して、「人」らしい。この歯がゆさが、魅力的なんだよねぇ。

言うまでもないことですが、犯罪は明らかに犯罪です。微妙な揺らぎでは全くない。ただのエゴでしかなく、許されないことです。誤解されないとは思うけど。書いておこっと。
ニックネーム なつこ at 14:52| Comment(3) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年03月28日

生活必需品。考察。

私、たまな。

先ほどの『生活必需品。』の続きを少し。

『富良野塾』というのは、倉本聰氏が「北の国から」の地に建てた、俳優・脚本家を目指す若者が集う私塾。富良野の厳しい自然の中で、昼間は地元の農家・酪農家の手伝いをしたり、みやげ物製作をして、生活費を稼いで、夜は芝居の稽古をするという生活らしいです。

より自然に近い生活をしている青年達の生活の必需品と、都会で暮らしている青年の必需品は違って当然。

『(人が)生きていくのに必要なもの』と『(自分の)生活必需品』は異なると思うな。前者は何かと問われたら、都会の若者でも、水とか火とか、言ったと思う。(思いたい。)

『生活必需品』って、「今の生活」の「必需」であって、「人の生活」に「必要なもの」と少し、意味合いが違うと思うのです。

自分にとって、今の生活を円滑に過ごすためにあってくれないと困るものが、今の生活の「必需品」。

災害等がなく、日常生活を無難に送れる中であれば、都会の人にとって、水も火も、提供されないということはない。何かを切らなくても、何週間だって過ごせてしまう。つまり、ナイフはなくても日々の生活は営める。必需品ではなく、すでに、揃っているもの。

一見、富良野塾の塾生の方が、まともな感性を持っているように見えるけど、私はそうは思わなかった。単に、生活がよりサバイバルだから、より生きていくのに必要なものの方に近いというだけで、彼らだって、都会に戻って3ヶ月たてば、富良野時代と同じ答えにはならないはず。良いとか悪いとかではなく、答えが変わる方が、ごく自然な感性だと思う。

満たされていることや便利なことは、悪いことではない。自分が、満たされている中にいること、便利な中にあることを忘れてしまっているのが、良くないのだと思う。
ニックネーム なつこ at 01:08| Comment(1) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年03月24日

言葉というもの。

私、たまな。

言葉ってさ、結局、ただの記号。ツール。

概念でしかないので、物事の意味を正確に表現している単語はない。

だから、単語にただひとつだけの意味を求めるのはムリ。

言葉って、あやふやで、なんとなく、お互いが分かり合えるような気になれるだけ。

言葉の意味を決めるのは、私。意味をつけ、解釈するのは、私。人とは、公約数でしか、やりとりできないので、あとは私が勝手に肉付けする。

公約数、わかりやすく言うなら、辞書に載ってる意味ってことかな。それさえ無視したら、話ができないので、それには挑んでも仕方がない。

例えば、単語に腹を立てたり、物申したりする時ってあるでしょう。「『ふつう』ってなに?」とか。

それって、自分の解釈に腹立ててたり、物申してるだけなんだよね。社会通念に挑んでいるつもりで、実は、自分で作ったものに挑んでるだけなの。

『ふつう』は『ふつう』。使われ方で意味が異なるわけで、一般的な意味は『特に変わってないこと』(Yahoo辞書)で良いでしょう?これ以上シャープにはならないし、する必要もない。

後の意味付けは自分がしているんです。

ただ、こうやって、ひとつの単語にこだわったりするのを繰り返しながら、言葉の概念を引き締めていくんだろうな。

そして、いくら、私が意味付けすると言っても、好き勝手に付けていいもんじゃない。「人と交換する」と言うのが大前提だから、それをしっかり考慮して、すっきりと肉付けすることが、大切なんだろうな。

言葉には幅がある。その幅を、極端に狭めても、だらしなく広げてもダメなのだと思うのです。

話が少し変わるけど、ある女性が、「言葉に鈍感」と言う表現をした。うまいこと言うなぁと感心した。

言葉に鈍感な人というのは、公約数をちゃんと理解できていなかったり、概念をシャープに削ぎ落とせていない。ただでさえあいまいな言葉というものを、更にいい加減に使ってる。

そういう人は、自分も相手に伝えられないし、相手の意図も正確に拾えない。上手に「交換」できてないんだけど、気が付かないのかなぁ。どうなんでしょう。
ニックネーム なつこ at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年03月22日

狼。

私、たまな。

なにかの、書評で「普通の女の子のように、つるんだりしない、一匹狼のような子。」という下りをみた。

普通の女の子はつるむもので、一匹狼は少数派なのだろうか。

私の周りは、自称、一匹狼だらけだ。いや、実際、グループを形成してる子たちの方が少ない。(つまり、あそこは仲良しグループだから『ひとくくり』と認識している子たちということ。)

中学の時は、クラスの半分が女子で、グループがあった。私は、一人でいることが多かったけど、一応仲の良い子達というのはいて、傍から見たら、そのグループだと思われてても不思議じゃない。でも、自分は一匹狼だと思ってた。

グループは中心固定メンバーと、流動する子達とで成り立ってる。私の感覚だと流動する子は3〜4割。少なくはないと思うんだけど

高校は、平均だと45人のクラスで女子が9人。少ない時は50人で6人。グループなんて、作ってる場合ではない。全員一匹狼。それがうまく役割をこなしていた。

大学は、今でも付き合いのある女の子2人がメインの仲間だった。つるんでいるかといわれれば、ほとんど朝から晩まで一緒にいたからなぁ。といっても、お互い、彼氏もいれば、サークルも違うから、別の場所では、一匹狼だった訳で。

周囲の人から見れば、女の子同士のグループと思っていても、本人は「私って一匹狼」と思っていることが多い気がする。

だって、グループに属する時もあるけど、ほとんど、一人で行動していることの方が多いでしょう、普通。

本当は、つるまないといられない子でさえ、自分は一匹狼よと、思ってたりするように見えるのよね。

「女の子の集団は、必ずグループ化する。」と言うのはまぎれもない事実であり、ゆるぎない現象。でも、女の子の多くは、自分はグループには属さない人だと思っているんじゃないのかなぁ。と見えるのですが、どうなのでしょう。
ニックネーム なつこ at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年03月20日

賢くない。

私、たまな。

下↓の記事、題名と文章があってないわーい(嬉しい顔)

ま、内容が1つに絞れず、2つに別れているので、しょうがないな。

長ったらしいのを、読んでくれてありがとう。
ニックネーム なつこ at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年03月20日

子供の言い分。

私、たまな。

昨日、電車に乗ろうと、ホームで待っていたら、小学校高学年くらいのサッカーチームらしき集団15名前後がやってきた。引率はコーチとおかあさんらしき女性1名と、男性がもう一人いたかな?

基本的に、子供は嫌いではないけれど、当然、行儀の悪いガキには物申したくなる(黙ってるけど)。騒がしいのはしかたない。

電車がきた。どうも、一駅で下車する模様。車内は、椅子が8割埋まっている程度だけど、15人の子供が全員座れるわけはない。

コーチが「座るな。次で降りるぞ。」でも、何人かの子が二人分の空席に座りたがった。その中の2人が座った。立っていた他の子が「座っちゃだめだよ!」と注意をする。

無理矢理、席から立たされる。でも、また座る。繰り返す。「なんで、座っちゃダメなんだよぉっ。」「コーチがダメっていうから!」

渋々納得する子が数名。でも、ひとり、憮然と座り続ける子がいた。「なんでだめなの?ヒザが痛いんだよぅ。」

その子も、強制的に立たされる。でも、今度は、床にすわりこんだ。それに同調して一緒に座り込む子が一人。

おかあさんが飛んでくる。二人のお尻を蹴り上げて「しっかりしなさい。もう5年生なんだから!マナーを守って!なんで、できないのっ。」

座り込んでいる子が「どうしてダメなの?」と訊くけど、誰も返事をしない。他のつきそいの大人も何も言わない。

あああ。うっとおしい。でも、子供の集団のうるささがうざいわけではない。

大人の対応が納得できない。座り込んだ子は、どうして空席があるのに座ってはいけないのか、納得できる回答をしてくれ、と訴えてるのに、誰も答えてあげない。彼にしてみれば、膝が痛い自分、座りたい。空席がある。一駅でも座ってもいいではないか。非合理だ。と思っているわけでしょ。

私だったら「全員が座れるわけではないので、座ってはいけない。座りたい子は君だけではないし、いちいち、全員に座りたいか否かを確認してるうちに、電車は着いてしまう。だったら、平等に全員座らないというのが、チームワークに繋がる。だから、我慢しなさい。」サッカーチームのようなので、チームワークが大切なことは学んでいると思うから、こう言うな。

これで、この子が納得するかどうかはわからない。それでも、駄々をこねるのならば、この子は、今日は、団体行動をできる状態ではないのでしょう。だったら、帰宅した方がいい。私なら、家に帰す。一人では帰れないと言うのであれば、親に迎えにきてもらうよう連絡する。

子供にもいろいろいる。この集団を見ているだけでも、「コーチが言ったから」という理由で納得できる子もいれば、それでは納得できない子もいる。納得できない子が、納得できるように説明するのが大人の役割だと思うなぁ。妥協できる理由や理屈は必ずあるんだから。

私は、子供は、我慢するべきだと思っているから、座り込んだガキに同情はしない。好きにさせてあげようなんて、絶対に思わない。きっちり、我慢させる。本当にできないのであれば、出来ない理由は必ず理解できることだろうから、よく見ると思うな。

大人になってから強いられる我慢はなかなか許容できないと思うのね。子供の頃、強制的に仕込まれてきたから、習慣化されて、スムーズにできることって多い。

大人は、「社会性」というものを身につけていなければならない存在なので、それには、やっぱり、子供の頃から、繰り返されることが非常に大切だと思うのです。

一例を挙げるなら。

日本という国で生きていくには、時間にルーズでは高度な「社会性」に対応できない。だから、学校時代に「遅刻してはいけない」と注意され続けるわけです。年齢的に成人してから急に「遅刻してはダメ」と言われても、守れない。

外国の某南の島の男性はあまり時間を意識しない。日本人が彼らを雇って一番困るのが、時間を守れないことだという。「朝の7時に来て。」と指示すると、翌々日の7時に平気な顔で来るらしい。もちろん、指示が「翌日の7時」と理解している。雇いたては守れる。でも、段々、守れなくなる。習慣がないからなんだよね。お陰で、何度も雇いなおしているらしい。大変だ。彼らの島の中では、充分に社会性を保った人でも、日本人の元で働くには、社会性が足りないのだ。

日本人が中心の所で生きていくのであれば、日本人の社会性に適合している方が楽だよね。

だってさ、毎朝、毎朝、時間守るのうざーーーいっと葛藤し続けるより、それが普通のこととして身についている方が楽だと思う。

あらゆることを、最初から自分流にアレンジしているより、ある程度、これはこういうふうにやってく方が楽だよと教わって、習慣化されてしまう方が、合理的だと思う。理屈なんて、マスターしてから、なるほどねぇと、納得すればいい。

社会性を維持するのに、身につけていた方がよいことは、子供のうちから我慢して習得しておいた方がよいと思うのでした。ほんと、大人になってからの新しい我慢はできないんだって。
ニックネーム なつこ at 16:44| Comment(2) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年02月23日

苦しみの比較。

 私のお気に入りのお嬢さんたちのブログで、共通の「コメント」に対するご自身の意見を語ってあるのを拝見。私も、その「コメント」に対しては思うところあるので、取り上げることにしました。

 「世の中、もっと苦しい人がいるのに悲劇のヒロイン気取るな」という主旨のコメント。それに対して、苦しい人は苦しい、比べるものではない。不愉快なら、来なければいい。というのが、賢明な意見の思うところ、でよいかしら。

 私は病気になる前から、苦しいとか辛いとか、自分がそう思ったら、自分より不遇な状況の人がいるのは知ってるけど、なんの慰めにもならないって思っていました。

 今も、基本的にはそう。でも、医師という職業のなかで、毎日、多種多様の苦しみを見た。私生活でも、それなりに痛い経験もする。

 いつのまにか、私の中に、悲しみ苦しみランキングができていました。

 病気には、緊急とそうでないものがあり、重症度をいつも意識することを教え込まれている。もともと、重要度による順位をつける傾向が習慣にあったけど、お陰で、更に強化され、判断基準も自分本位から標準化にややシフトしたものになって、癖になっていった。

 だから、「苦しみ」を比較することはできない。と公言し、人から見たら「ナゼ?」なことでも、本人にとっては重大なことは多々ある。と心から思っているけど、やっぱり、瞬時に比較してしまう。自分の経験してきた苦しみランキングだとこの辺だって。(経験と言うのは、体験も含むけど、見てきた経験も入れてね。)

 100質で、嫌いな女のところで「自分だけが特別不幸だと勘違いしている女。」と答えたように、私のランキングに不釣合いな不幸顔されると、ほんとは、やになる。でも、その人の過去に経験してきた出来事の中で、今度のことは、相当厳しいのねと思うと、仕方ないとも思うんだけど。

 問題のコメントを書いた人は、きっと、自身の苦しみランキングの中で対比すると、書かれた主さんの状況は、私の言う所の「不釣合い」に見えたのでしょうね。そして、うすっぺらい正義感のもとに、物申してみたくなったのだと私は考えました。それが、自分の自己満足なだけだとは考察できずに。今回の人は、ほんと、本質を何も理解できていないのですが、この人は特別異常な人でもない。

 私は、最近思うのですよ。「少々、言われた方がいいだろー、君は。」という人も、正直、少なくない。でも、考えるのですよ。今、言われる必要はないと。いつか、気が付く。いずれ、気が付く。もし、気が付かなかったら、そのときはその人の人生です。

 痛いことを発言する人は、責任を持って、その言った相手をfollowし続ける義務が生じることを肝に銘じるべきなのよ。背負ってやるわという気概がある相手にだけ、厳しいことは言うべきだと、私は思っている。
 
 だから、掲示板やブログのように言い捨てて逃げられるような環境の中で、自分のうっぷんばらしに発言するのは、大人ではないとつくづく思う。たいてい(もれなく今回も)、こういう意見も世の中にはあるんだよ的に逃げますが、そんな意見、あなたから聞かなくても、とっくに耳に入ってますし、思いやりを含まない発言は、いかにあたっていたとしても、心に届きませんから。本当に、その人の事を考えて助言したいと思ったら、おのずと言葉が選ばれてくるものです。

 最後に。私は心の中でランキングをつけますが、この人よりは私の方がましだから、という気安めの仕方は、ありえません。この人は、このへん、私は、このへんと、差をつけても、だから、何?どっちがどうという評価は出てきません。ランキングは客観的比較であり、比べる手段にはなりえない。

 
ニックネーム なつこ at 11:22| Comment(3) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。

2005年02月16日

自分のこと、好き?

私、たまな。

私、10代の頃、自分が大好きだったの。ぷち登校拒否児だったけど、理由なんてない。ただそうしたかったからなだけ。特別な悩みもなく、すくすく育った。

20代の頃、自分が大嫌いだった。理由なんてない。とても、良い子でした。楽しいことが大好きで、勉強より遊んでばっかりいて、陽気で、はじけてた。普通に悩み、楽しみ、いろんなこと考えてたな。オトナから見たら、非常に人生を謳歌しているけど、どこか不安定な女の子だったと思う。

30才になって、うつ病と診断された。誰も、気が付かなったのよ。周りは現役バリバリのそれなりに優秀な医師ばっかりだったけど、だーれも、私がうつ病だなんて気が付かなかった。演じきっていたからねぇ。まさに、うつ病の典型。

病気になって、自分への憎悪は高ぶる一方だった。うつ病は、性格が暗くなる病気ではなく、思考が歪み、曲がって、(思考)回路が狂う病気です。生きていることが本当に辛く、曲がった思考の中をぐるぐるぐるぐる彷徨った。

巷では「自分を愛そう、自分を好きになろう」って言うでしょう。でもさ、私、その必要性を納得できない。けど、それが絶対に正しいことのように皆に言われると、良い子の私はそうしないといけないのかもしれないとも、思ったりもする。

去年の春、病気が大分良くなってきた頃、じょんが「俺は自分が好き。たまなは?」って訊いた。しばし、考えた。

「もう少し。」と苦笑しながら答えた。病気が良くなってきたからなのか、そういう年齢になっていたからなのか、自分への憎悪はなかったの。でも、「自分が好き」とも言えない。もう少し、デ、スキニナルカモシレナイ。

じょんは、その回答がお気に召したらしく「いいなぁ。それ。」と感心して言った。光がさしてしまった。そっか、これでいいんだ。

無理に、自分を好きになろうとしなくていい。

自分自身を憎悪する人というのを見るのは、辛いんだと思う。だから、どうか、自分を好きになって!と言うのでしょう。でもさ、自分のことを、労わったり、大切にしたり、それくらいでいいじゃん。自分が好き好き〜ってのも、どうかと思うよ。

なーんて、急に、強気になっちゃったりして。

今も、「もう少し」。

ただ、去年よりちょっとだけ「好き」に近づいてる。
ニックネーム なつこ at 15:53| Comment(2) | TrackBack(0) | たまちゃんの長話。